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高松高等裁判所 平成9年(行コ)2号 判決 1998年7月17日

控訴人

丸亀労働基準監督署長石井祥弘

右訴訟代理人弁護士

河村正和

柳瀬治夫

右指定代理人

前田幸子

野村佳令

東田幸子

小泉明久

宮武公昭

薦田憲彰

被控訴人

今田アヤ子

右訴訟代理人弁護士

馬場俊夫

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二  被控訴人

主文同旨。

第二当事者の主張

一  原判決の引用

次のとおり補正したうえ、原判決事実摘示関係部分を引用する。

五枚目裏一行目の「前記研修旅行」を「前記一2の研修旅行」と、九枚目表八行目の「業務のついては」を「業務については」と、それぞれ改める。

二  当審附加主張

1  控訴人

(一) 被控訴人の脳出血は、高血圧性脳出血に当たる。

(二) 被控訴人の高血圧性脳出血は、被控訴人が従前から罹患していた脳血管病変が、自然経過の中で著しく進行したことにより、被控訴人の脳の左被殻において発症したものである。それがたまたま給油作業中であったにすぎない。そうであるから、被控訴人が従事していた業務が本件発症について相対的に有力な原因となったとはいえず、業務起因性は認められない。

(三) ガソリン被浴による一過性の血圧上昇は、脳の細小動脈には直接的な内圧上昇の影響を及ぼさない。したがって、ガソリン被浴は高血圧性脳出血を引き起こす直接的な因子とはならない。

(四) 香港旅行帰国後本件疾病発症に至るまでの期間における被控訴人の異常な疲労は、前示(二)の高血圧性脳出血の前駆症状とみるべきである。

2  被控訴人

本件の一連の事実経過からみれば、ガソリン被浴による強度の心理的ストレスが相対的に有力な原因となって被控訴人の脳の左被殻出血が生じたものというべきである。

理由

第一原判決の引用

当裁判所も、原判決と同様に、被控訴人の請求を認容すべきものと判断する。

その理由は、次のとおり補正し、後示第二のとおり附加するほか、原判決理由説示関係部分のとおりであるから、これを引用する。

一  一一枚目表八行目の「労務を提供させる」を「労務の提供をさせる」と改める。

二  一二枚目表五行目の「判定基準」の前に「一応の」を加入する。

三  同七行目から同末行目までを削除する。

四  一二枚目裏二行目から同四行目までを次のとおり改める。

「本件のような脳血管疾患等の発症と業務との間の相当因果関係の有無については、次のように考えるのが相当である。」

五  一三枚目表二行目の「そして」を「もっとも」と改める。

六  一三枚目裏一行目から同七行目までを次のとおり改める。

「本件疾病発症前の被控訴人の健康状態は、前記第二の一3のとおりであり、被控訴人は脳血管疾患発症の基礎となり得る何らかの素因ないし疾病を有していたものと認められる。もっとも、証拠(<証拠略>)によれば、被控訴人は、平成元年の健康診断では軽い高脂血症(又はHDLコレステロール低下)を指摘されていたが、受診・治療を要するとまではされておらず、また、昭和六一年の健康診断で指摘されていた軽い高血圧症もその後の健康診断では指摘されていない事実(健康診断時の血圧はほぼ正常範囲である)が認められ、これからすると、被控訴人が何らかの脳血管疾患発症の基礎となり得る素因又は疾病を有していたこと自体は否定できないものの、その程度は軽度のものであったといえる。したがって、被控訴人は本件疾病発症当時も通常の勤務に十分耐え得る程度の健康状態にあったものと認められる。」

七  一五枚目裏七行目の「前記(二)」を「前記1(二)」と改める。

八  一六枚目表七行目の「合理的」を削除する。

九  一六枚目裏七行目の「しかも」を「そのうえ」と改める。

一〇  同九行目の「しばしば」を「滅多に」と改める。

一一  同末行目の「精神的緊張」を「精神的及び肉体的負荷」と改める。

一二  一七枚目表二行目の「軽度の高脂血症を指摘されていたにとどまり」を「脳血管疾患発症の基礎となり得る素因又は疾病を有してはいたが、その程度は軽度のものであったということができ」と改める。

一三  一七枚目裏五行目の「高脂血症という基礎疾患(ママ)」を「脳血管疾患発症の基礎となり得る素因又は疾病」と改める。

第二当審附加主張の検討

一  控訴人は、被控訴人の高血圧性脳出血は、被控訴人が従前から罹患していた脳血管病変が、自然経過の中で著しく進行したことにより、被控訴人の脳の左被殻において発症したものであり、それがたまたま給油作業中であったにすぎないのであるから、被控訴人が従事していた業務が本件発症について相対的に有力な原因となったとはいえず、業務起因性は認められない旨主張する。

確かに、前示補正して引用した原判決理由説示関係部分のとおり、被控訴人が本件疾病の発症の基礎となり得る素因又は疾病を有していたことは否定し難い。

しかし、原判決の右説示のとおり、被控訴人は、平成元年の健康診断では軽い高脂血症(又はHDLコレステロール低下)を指摘されていたが、受診・治療を要するとまではされておらず、また、昭和六一年の健康診断で指摘されていた軽い高血圧症もその後の健康診断では指摘されていない(健康診断時の血圧はほぼ正常範囲である)。

また、その間、被控訴人が医療機関において、脳血管疾患の治療で受診した形跡はなく、被控訴人の家族等周囲の者は被控訴人の健康状態について格別異常はないものと認識していた(<証拠・人証略>)。

すなわち、原判決の右説示のとおり、被控訴人が脳血管疾患の発症の基礎となり得る何らかの素因又は疾病を有していたとしても、その程度はいずれも軽度のものであったといえる。

そうであるとすると、被控訴人の有していた右素因又は疾病が、本件疾病発症直前において、既に確たる発症因子がなくてもその自然の経過により血管が破綻する寸前にまで進行していたとみることはできない。被控訴人は本件疾病発症当時も通常の勤務に十分耐えうる程度の健康状態にあったものというべきである。

二1  もっとも、(人証略)は、意見書(<証拠略>)及び当法廷において、次の根拠を挙げ、被控訴人の脳血管疾患は、その自然の経過により血管が破綻する寸前にまで進行していた旨述べる。

(1) 被控訴人の香港旅行から帰宅して以来の疲労感は、高血圧性脳出血の前駆症状に当たる。

(2) 被控訴人の脳出血の部位である左被殻出血を起こした責任病巣は同部に分布するレンズ核線状体動脈(細小動脈の一つ)である。本件疾病は、この動脈壁の類線維素変性を基盤とし、これが動脈壁壊死へと進展して微小動脈瘤が形成され、壊死した動脈壁あるいは微小動脈瘤が破綻して出血が起こり血腫が形成されるという経過をもつ。この類線維素変性は、被控訴人の左右の大脳半球の基底核部にそれぞれ対称的におこり長期間存在していた。そして、左側大脳半球については本件疾病のため診断が困難であるが、右側大脳半球についてはMRIからその病変を読みとることができる。

2  検討

(一) (人証略)は、被控訴人が香港旅行から帰宅して以来の疲労感を、前示1(1)のとおり高血圧性脳出血の「前駆症状」、すなわち細小動脈病変の存在する大脳基底核部の局所脳循環不全によるものとする。しかし、被控訴人の疲労感がどのようなものであったかに関する医学的な観察記録は存在しない。すなわち、医学的な見地からみて客観性の担保された被控訴人の具体的症状を確定するに足る的確な証拠がない。そうであるから、(人証略)が前示意見書及び当法廷において述べる「前駆症状」に該当する臨床症状が被控訴人に真に認められたのかについて疑問を差し挟む余地がある。この見地に立ってみると、「前駆症状」に当たるとの(人証略)の見解は、いまだ推測の域を出ないものというべきである。

そうすると、前示1(1)の根拠に基づき、被控訴人の脳血管疾患がその自然の経過により血管が破綻する寸前にまで進行していたものということは困難である。

(二) (人証略)は、前示1(2)のとおり、被控訴人の左右の大脳半球の基底核部には、その細小動脈に長期間類線維素変性が存在しており、本件疾病は、このうち左大脳半球の基底核部の細小動脈の類線維素変性が基盤となって発症した旨述べる。

しかし、(人証略)は、右側大脳半球についてのMRIから左大脳半球の基底核部の細小動脈の類線維素変性の存在を推定するが、そもそもこのような病巣が完全に左右大脳半球に対称的に起こるのかどうかについて疑問を差し挟む余地があるうえ、右側大脳半球についてのMRIから、左大脳半球の基底核部の細小動脈の類線維素変性の存在を明確に診断できるのか、できるとしても、それがどの程度進行したものであり、脳出血の具体的危険性をどの程度認めることができるのか不明というほかない。

そうであるから、仮に被控訴人の左大脳半球の基底核部の細小動脈に類線維素変性が存在したとしても、それがどの程度進行したものであり、脳出血の具体的危険性がどの程度存在したのかにつき、これを明らかにする的確な証拠がないものというべきである。

そうすると、前示1(2)の根拠に基づき、被控訴人の脳血管疾患がその自然の経過により血管が破綻する寸前にまで進行していたものということは困難である。

3  以上のとおり、(人証略)の前示意見書及び当法廷における供述を考慮しても、被控訴人の有していた右素因又は疾病が、本件疾病発症直前において、既に確たる発症因子がなくてもその自然の経過により血管が破綻する寸前にまで進行していたとみることはできない。

三1  前示補正して引用した原判決理由説示関係部分のとおり、被控訴人が被浴したガソリンの量は約一リットルと多量であり、しかも被控訴人は給油口をのぞき込んだ状態で、頭部、顔面を中心として全身にガソリンを浴びていて、そのうえかなりの量のガソリンを吸入しており、直後に診察した医師はガソリン中毒を疑うほどの状況であって、このような状況でガソリンを浴びることは給油所においても滅多に発生する事態でないと考えられること及びガソリンが目や鼻に入った場合は激しい痛みが発生することに照らせば、本件ガソリン被浴は、被控訴人に対し、相当に強い恐怖、驚がくといった極度の精神的及び肉体的負荷をもたらす突発的で異常な事故であったというべきである。そうすると、このような精神的及び肉体的負荷は、被控訴人の有していた前示一の素因又は疾病をその自然の経過を超えて急激に悪化させる要因となり得るものというべきである。この点につき、控訴人は、一過性の血圧上昇は、細小動脈における脳出血を起こす直接的な因子とはなり得ない旨主張する。しかし、(人証略)の意見書及び当法廷における証言や(人証略)の原審における証言は、一過性の血圧上昇であっても、それが何らかの形で作用することにより、脳内出血の何らかの原因となり得ることを否定する趣旨とまではいえない。むしろ、一過性の血圧上昇が何らかの方法で既存の脳血管障害に作用した結果、細小動脈に脳出血が起こりうる余地を肯定する趣旨と解することができる。また、精神的及び肉体的負荷が人体に及ぼす影響は血圧の変動にとどまるものではなく、他の何らかの形態において、細小動脈の脳出血の因子となる余地を否定することはできない。したがって、控訴人の右主張を採用することができない。

なお、被控訴人は、本件ガソリン被浴の僅か数分間後に本件疾病を発症しているのであるから、この点も、本件ガソリン被浴が被控訴人の細小動脈の脳出血に対する何らかの原因として作用したことの根拠となるものといえる。

2  原判決の右説示のとおり、業務上の香港への研修旅行、及び同旅行後の業務による疲労も、本件ガソリン被浴と相俟って被控訴人の有していた前示一の素因又は疾病をその自然の経過を超えて急激に悪化させる要因となり得るものというべきである。

他方、前示一、二の説示のとおり、被控訴人の有していた前示一の素因又は疾病が、本件疾病発症直前において、既に確たる発症因子がなくてもその自然の経過により血管が破綻する寸前にまで進行していたとみることはできない。

そうすると、被控訴人は、同人の有していた前示一の素因又は疾病が、業務上の香港への研修旅行、及び同旅行後の業務による疲労並びに業務上遭遇した本件ガソリン被浴の事故によって、その自然の経過を超えて急激に悪化したことによって発症したものとみるのが相当であり、その間に相当因果関係の存在を肯定することができる(最高裁判所平成九年四月二五日判決・判例時報一六〇八号一四八頁参照)。

3  以上のとおり、被控訴人の本件疾病は、業務上の疾病に当たるものというべきである。

第三結論

よって、本件控訴は理由がないから、これを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法六七条一項、六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大石貢二 裁判官 杉江佳治 裁判官 重吉理美)

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